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故郷の城・柵

★故郷の城・柵 現在19城  下記、畿内七道の各項をクリックすれば切り替わります。  
  1. 畿内
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山城 二条城   ■創建<理由・形式・武将・年>−♦慶長8年(1603年) ♦徳川家康 ♦京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所 ■増改築−♦寛永3年(1626年) ♦3代将軍家光 ♦遺構を移すなど ■城の名の由来−不明 ■城の歴史<城主の経緯>−幕末の慶応3(1867)年には15代将軍慶喜がここで大政奉還を行った。 ■城の顛末−現在に至る ■お祭りなど−♥常設館 ■所在地−京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 ■宿泊− ■交通−市バス「二条城前」下車すぐ ■休城日−あり、HP参照 ■料金−有料、HP参照 ■連絡先−京都市文化市民局元離宮二条城事務所 (TEL:075-841-0096  FAX:075-802-6181) ■秘話−合わせて4ッの二条城があった。以下3ッの城を「二条古城」と呼ぶ。 (1) 室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。永禄8年(1565年)、松永久秀と三好三人衆に襲撃され、義輝殺害、二条城焼失。 (2) 織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。武田信玄西上、三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、元亀4年(1573年)3月に、義昭は二条城において信長に対し挙兵するが、一戦も交えず降伏。この際に、御殿などは兵士たちによって掠奪され、破壊されたと伝えられる。 (3) 織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、天正7年(1580年)11月に、信長はこの邸を、正親町天皇の第一皇子、誠仁親王に献上した。
大和 大和郡山城   ■創建<理由・形式・武将・年>−♦筒井順慶 ♦天正8年 ■増改築−1585年(天正13年)羽柴秀吉の弟・大納言羽柴秀長 ■城の名の由来−別名犬伏城 ■城の歴史<城主の経緯>−筒井氏、豊臣氏、柳沢氏15万石 ■城の顛末−現在に至る ■お祭りなど−♦お城祭り(桜祭り・時代行列・白狐渡御)(4月1日〜15日) ♦公園 ♥柳沢神社(祭神−柳沢家の藩祖・柳沢吉保) ♦柳澤文庫   ■所在地−奈良県大和郡山市城内町 ■宿泊− ■交通−♦近鉄橿原線近鉄郡山駅、JR関西本線郡山駅〜徒歩 ♦西名阪道郡山IC〜国道24号線〜市道 ■休城日− ■料金− ■連絡先−大和郡山市役所 0743-53-1151 ■秘話
河内  遺構なし
和泉 岸和田城   ■創建<理由・形式・武将・年>−畿内・紀伊への南からの抑え・楠木正成の家臣 和田高家・1333年──(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が親政開始(建武の新政)の年(建武元年) ■増改築−♦1585年(天正13年)豊臣秀吉の家臣・小出秀政 ♦1640年(寛永17年)摂津高槻城より岡部氏、以後岡部氏13代の居城となる。 ■城の名の由来−岸和田という地名の由来はいくつかあるがそのうちの一つに、元々岸という地名であったこの地に和田氏が入り、岸の和田氏と呼ばれたことから岸和田となったという説がある。 ♦別名猪伏山(いぶせやま)千亀利(ちきり)城 ■城の歴史<城主の経緯>−和田氏、小出氏、岡部氏 ■城の顛末−♦1827年(文政10年)落雷のため天守が焼失し、以来再建されなかった。 ♦1871年廃城 ♦遺構:石垣、堀 復元、模擬天守・櫓・門 ■お祭りなど−♥資料館(常設館) ♦岸和田だんじり祭 ♦有名な岸和田だんじり祭りは岡部氏3代目岸和田城主長泰が城内三の丸に伏見稲荷神社を勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭りに領民の参拝を許したことが起源とされる。 ■所在地−大阪府岸和田市岸城町9番1号 ■宿泊− ■交通−南海本線岸和田駅下車徒歩7分 ■休館日−♦休館日:毎週月曜日 ♦10:00〜17:00(入館は16:00まで) ■料金−大人200円(天守閣・資料館共通) ■連絡先−大阪府岸和田市岸城町9番1号(郷土資料館)072-431-3251 ■秘話
摂津 大阪城   ■創建<理由・形式・武将・年>−豊臣秀吉・天正11年 ♦別名錦城 ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−豊臣氏、徳川氏 ■城の顛末−♦明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如、大坂御坊を建立。 ♦天文元年(1532)、山科本願寺が焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺とした。堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の城砦として強化された。また、次第に寺内町も発展し、11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えた。 ♦元亀元年(1570)から11年に及ぶ織田信長の本願寺責めに、天正8年(1580)顕如退去。堂塔伽藍は全焼。 ♦天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請を開始した。 ♦元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620)2代将軍徳川秀忠(普請総奉行に選ばれた藤堂高虎)により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。 ♦万治3年(1660)城内青屋口の火薬庫に落雷して大爆発が起き、後に幕府は現存する石造りの火薬庫(焔硝石蔵)を建造した。 ♦次いで寛文5年(1665)には天守北側の鯱に落雷、大天守は竣工後わずか39年目で焼失し、以後昭和の復興まで266年間、大坂城は天守を欠いた城となった。 ♦さらに天明3年(1783)には城の玄関である大手多聞櫓をやはり落雷で焼失し、大坂城の威厳は甚だ損なわれることとなってしまった。 ♦慶応4年(=明治元年1868年)幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、慶喜は大坂城を脱出、江戸へ逃げ戻った。その混乱の中で本丸台所付近などから出火し、近世城郭建築の精華であった城内の建造物はほとんど焼失。再築以来約250年を経て、大坂城は再び落城の憂き目を見る。 ♦明治以降、大阪城跡は陸軍の軍用地としてすべて実用に供された。市民や観光客の城内への出入りは禁止されていた。 ♦昭和3年(1928)当時の市長、関一(せき・はじめ)が天守閣復興を提案。議会の賛同を得て推進委員会が設置。昭和6年(1931)11月7日、歴史上3代目の大阪城天守閣が竣工した。 ♦昭和20年(1945)の空襲では、京橋口多聞、二番・三番・伏見・坤の4櫓などを焼失した。終戦後、3年近い米軍占領から返還されて、官民挙げて、戦災や昭和25年(1950)ジェーン台風による被害の修復・再建工事が行われ、都心の真ん中の広大な史跡公園として機能している。 ♦石垣も堀も、地上に残る大阪城遺構のすべてが徳川再築以降のものである。 ■遺構−復興天守、櫓、蔵、石垣、門、曲輪、堀 ■お祭りなど−♥資料館(常設館)   ■所在地−大阪府大阪市中央区大阪城1-1 ■宿泊− ■交通−♦JR大阪環状線大阪城公園駅、森ノ宮駅〜徒歩 ♦阪神高速法円坂IC、森ノ宮IC〜市道 ♦有料駐車場を利用(大手門脇の有料駐車場が便利) ■休館日−♦12月28日〜翌年1月1日まで ♦開館時間 9:00〜17:00(入城受付16:30終了) ■料金−大人600円、小人無料 ■連絡先−大坂城天守閣 06-6941-3044 ■秘話

伊賀 上野城   ■創建<理由・形式・武将・年>−筒井定次、平楽寺跡に築城・1585年(天正13年) ■増改築− ■城の名の由来−♦別名白鳳城、伊賀上野城 ■城の歴史<城主の経緯>−筒井定次、1608年(慶長13年)藤堂高虎、1825年(文政8年)藤堂高猷が最後の城主(明治2年版籍奉還) ■城の顛末−明治維新後、石垣上の構造物の多くが取り壊された。1935年(昭和10年)川崎克により再建。 ■遺構− ■お祭りなど−♥常設館   ■所在地−伊賀市上野丸之内106番地 ■宿泊− ■交通−近鉄上野市駅徒歩5分 名阪国道上野東ICから北へ5分又は中瀬ICから西へ5分 ■休館日−12/29〜12/31休 9:00〜17:00(入館は16:45まで) ■料金−大人500円、小人200円 ■連絡先−財団法人 伊賀文化産業協会 0595-21-3148 ■秘話
伊勢 亀山城   ■創建<理由・形式・武将・年>−東海道の要衝(古代から亀山は、東海道鈴鹿峠を押さえる交通の要)・関 実忠・文永元年 ■増改築<城主の経緯含む>−♦文永2年(1265年)関実忠(伊勢平氏の流れをくむ)・(亀山古城) ♦永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降は、度々戦場となった。 ♦天正18年(1590年)関一政陸奥白河へ移封。豊臣秀吉に従った岡本宗憲入城、現在の地に新亀山城を築いた。 ♦江戸時代は伊勢亀山藩主の居城。天守の解体命令を丹波亀山城と堀尾忠晴の間違えにより天守は取り壊されたまま。 この時期の亀山城は上洛する将軍の旅館。 ♦宗憲は関ヶ原では西軍に与したため改易される。関一政が城主に返り咲くが、 慶長15年(1610年)に伯耆黒坂に移封される。 ♦寛永13年(1636年)、城主本多俊次、天守台に多聞櫓築造。 ♦延享元年(1744年)に石川総慶が備中松山より6万石で入封して以後、11代続いて明治を迎えた。 ♦明治6年(1873年)廃城令により、殆どの構造物が取り壊された。 ■城の名の由来−別名 「粉蝶城」 「若山城」 ■城の顛末− ■遺構−天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁 ■お祭りなど−♥不明   ■所在地−三重県亀山市本丸町 ■宿泊− ■交通−JR関西本線亀山駅〜徒歩約15分 名阪国道亀山IC〜旧国道1号線(県道565号線) 亀山神社脇に無料駐車場あり(15台程度)
志摩 鳥羽城   ■創建<理由・形式・武将・年>−♦平山城(海城)・九鬼嘉隆・文禄3年(1594年) ♦九鬼氏の祖は不詳。熊野地方の豪族八氏(八荘司)中の何れかという。志摩にやって来た隆良を初代とすると、嘉隆は六代目となる。信長を後ろ盾に、元亀元年(1570年)志摩を統一する。その後、九鬼水軍は織田・豊臣の兵站部門を支える役で、四国、九州はては朝鮮へと忙しくなり、自分の居城完成は、志摩統一の24年後となっている。 ♦本願寺責めでの毛利に大敗した後の鉄甲船は有名。 ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−関ヶ原合戦で嘉隆西軍、子の守隆東軍。守隆により助命嘆願を家康に受け入れられたが、嘉隆自刃する。九鬼氏相続問題で二家に分割山間地へ転封 ・内藤氏(取り潰し)・土井氏・松平氏・板倉氏・松平氏と入封し、享保10年、稲垣昭賢が下野烏山から3万石で入封。以後、稲垣氏が続いて明治に至る。 ■城の顛末− ■遺構−曲輪、石垣 ■お祭りなど−♥城跡・城山公園   ■所在地−三重県鳥羽市鳥羽 ■宿泊− ■交通−JR参宮線鳥羽駅、近鉄鳥羽線鳥羽駅〜徒歩5分 伊勢道伊勢IC〜国道42号線 鳥羽幼稚園下に10台程度の駐車場あり。(無料) ■休館日− ■料金− ■連絡先−鳥羽市役所 0599-25-1111 ■秘話
尾張 清洲城   ■創建<理由・形式・武将・年>−下津城の別郭・平城・斯波義重・応永12年(1405年) ■増改築− ■城の名の由来−別名「清須城」 ■城の歴史<城主の経緯>−♦文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城焼失。 ♦文明10年(1478年)に守護所が清洲に移転。尾張国の中心地。尾張守護代織田家の本城として機能。 ♦織田信秀が古渡城に拠点を移すと宗家の織田信友が入城したが、 弘治元年(1555年)織田信長、宗家信友を殺害。大改修を加え本拠として居城。 ♦永禄6年(1563年)信長、斎藤氏との戦に備え小牧山城に移る。以後は番城となった。 ♦天正10年(1582年)本能寺。清洲会議の舞台。次男・織田信雄が相続した。 ♦小田原合戦(天正17年(1589年)軍令)で信雄が羽柴秀吉に逆らい除封。羽柴秀次の所領へ。 ♦文禄4年(1595年)福島正則 ♦慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い東軍の後方拠点。 ♦慶長12年(1607年)徳川義直(家康九男)。 ♦慶長14年(1609年)徳川家康、清州→名古屋へ遷府を指令。 ♦慶長15年(1610年)移転(清洲越し)、清洲城も名古屋城築城の際の資材として利用された。特に名古屋城御深井丸西北櫓は清洲櫓と呼ばれる。 ■城の顛末−♦慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転で廃城。 ♦現在の清洲城は旧・清洲町の町制100周年を記念して平成元年(1989年)に再建されたもの。外観は想定。 ■遺構−本丸土塁 ♦見所:復興天守、城跡碑など ■お祭りなど−♥清洲城天主閣 ♦清洲城ふるさとまつり・10月一ヶ月(時代行列など‥産業課(本庁舎・052-400-2911)) ♦桜の花見 ♦清洲公園 ♦清洲古城跡公園(信長を祠る小社があります。毎年6月2日の命日には郷土の英傑を讃え、社前で「織田信長公顕彰祭」が行われています。) ■所在地−清須市朝日城屋敷1番地1 ■宿泊−清洲町内には無し。名古屋界隈まで出るとビジネスホテルなど多数あり。 ■交通−名鉄電車: 名古屋本線新清洲駅より徒歩15分 JR東海: 東海道線清洲駅より徒歩15分 東名阪自動車道: 清洲東インターより車15分 駐車場: 清洲公園の無料駐車場を利用。 ■休館日−開館・入館時間:午前9時〜午後4時15分(閉館時間は午後4時30分) 閉館時間 月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日〜12月31日(ただし、桜の花見期間・清洲城ふるさとまつり期間は除く) ■料金−清洲城天主閣入場料 :個人(団体): 大人 300円(250円): 小人 150円(100円) ■連絡先−清洲城管理事務所 052-409-7330 ■秘話
三河 岡崎城   ■創建<理由・形式・武将・年>−平山城・西郷頼嗣(稠頼)・康正元年(1455) ■増改築− ■城の名の由来−別名:竜城・竜ヶ城 ■城の歴史<城主の経緯>−1523年に一門衆が愚鈍な父松平信忠を隠居させて、子清康に家督を継承させる。 1526年(または1524年)、清康は山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の新岡崎城に移転。安祥城から居城を変える。この城を拠点に勢力を拡大する。1535年、清康は尾張守山の陣の最中家臣に斬り殺された。「守山崩れ」。享年24。当時9歳の父広忠は、大叔父・松平信定に岡崎城を奪われ放浪。天文6年(1536年)入城元服する。天文9年(1539年)岡崎城の支城で、松平氏の故地である安城(安祥)城が、織田信秀に落とされる。天文11年(1542年)小豆坂の戦いで今川・松平連合軍、織田軍に敗北。嫡子・竹千代(家康)誕生。天文16年(1547年)広忠は、織田氏の東征を阻止のため今川へ竹千代(家康)人質。途中、戸田康光に竹千代を強奪され、織田信秀に送られる。天文17年(1548年)松平広忠、今川軍(総大将・太原雪斎)の救援で再び小豆坂の戦い。勝利。天文18(1549年)松平広忠、刺客に暗殺される。城主のいない城となった岡崎城は、今川軍に占拠され、駿府から派遣された代官に支配される。同年11月、今川・松平連合軍は、安城(安祥)城を奪還。織田信広を生け捕り。竹千代との人質交換。竹千代が岡崎城に帰還するも同月27日、駿府へ向かい、以来、桶狭間の合戦で岡崎で自立するまで、足掛け12年の忍従の人質生活であった。 ■城の顛末−1871年 廃藩置県により城内に県庁が置かれる 1872年 県の統合により県庁が名古屋に移転 1873年 取り壊しが始まる 1959年 天守が復元される ■遺構− ■お祭りなど−♥郷土博物館 ♦岡崎公園 ■所在地−愛知県岡崎市康生町561番地 岡崎公園内 ■宿泊− ■交通−♦JR岡崎駅より、名鉄バスで殿橋下車、徒歩5分 名鉄東岡崎駅下車、徒歩15分、又は、岡崎公園前駅下車、徒歩15分 (名鉄バス利用の場合、東岡崎駅から殿橋下車) 愛知環状鉄道中岡崎駅下車、徒歩15分 ♦東名高速道路岡崎インターチェンジより国道1号線を西へ10分 ■休館日−開館時間 9:00-17:00(入館は16:30まで) 休館日 年末年始(12月29日〜1月1日) ■料金−大人:500円 子供:270円 駐車場:30分につき100円 ■連絡先−岡崎城 0564-22-2122 ■秘話 吉田城   ■創建<理由・形式・武将・年>−東三河の戦略拠点・平城・牧野古白・永正2年(1505) ■増改築−1590年〜 池田輝政により、吉田城や城下町の大改築、吉田大橋の架け替え ■城の名の由来−別名:今橋城、豊橋城 ■城の歴史<城主の経緯>−牧野氏、松平家康、(家康家臣)酒井忠次、(準豊臣一族、家康の娘婿)池田輝政‥ ■城の顛末−1869年 松平信古が版籍奉還して明治政府下の豊橋城となる 1871年 敷地は兵部省の管轄となる 1873年 失火により多くの建物が焼失 1875年 大日本帝国陸軍第18連隊が駐屯 1954年 鉄櫓を模擬再建 ■遺構−石垣、土塁、堀、模擬鉄櫓 ■お祭りなど− ■所在地−愛知県豊橋市今橋町3 豊橋公園 ■宿泊− ■交通−♦JR「豊橋駅」から市電「豊橋公園前」下車、徒歩3分 ■連絡先−豊橋市商業観光課 0532-51-2430 ■秘話
遠江 相良城   ■創建<理由・形式・武将・年>−♦平安末期に相良荘を領した肥後人吉城主相良氏の先祖相良周頼の館(相良館) ♦高天神城の防衛拠点(相良古城)・平城・武田勝頼・天正4年(1576年):「高天神記」に「同12日相良へ出給い、湊の脇に城取有り高坂弾正縄張也」とある。 ♦田沼意次(江戸を今の中国の様にした政治家 ── 権力は一点集中で、資本主義という、はた迷惑で、またあり得ない事を図った政治家。)・明和4年(1767年)(500m四方の広大な敷地に、三重の堀を巡らした壮大な規模だったと言われる。)(近世城郭相良城) ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−松平定信が老中になり、田沼意次は失脚する。 意次の家督を嗣いだ意明は、天明7年に陸奥下村へ移封。 相良城は廃城となり、松平定信により徹底的に破却された。 ♦その後、天領を経て、文政8年に陸奥下村から田沼意正が、1万石で旧領相良に復帰、以後3代続いて明治に至った。 ■城の顛末−破壊作業後は無城格の陣屋として明治維新まで存続し、跡地には町役場・歴史資料館・小中学校が建っている。 ■遺構−仙台河岸の石垣のみ ■お祭りなど−♥相良史料館   ■所在地−静岡県牧之原市相良275-2 ■宿泊− ■交通−♦JR東海道本線、静岡駅下車、特急相良御前崎行きバス「相良営業所」降車、徒歩10分、 JR金谷駅下車、萩間線相良行きバス「相良営業所」降車、徒歩10分。 ♦東名高速道路、相良・牧之原ICから国道473号線、約20分。史料館前の無料駐車場利用。 ■休館日−利用時間:午前9時〜午後4時 第3日曜日、月曜日(祝日の場合は開館・この場合は翌日が休館)、年末年始(12月28日〜1月4日) ■料金− ■連絡先−相良史料館 0548-53-2625 ■秘話
駿河 駿府城   ■創建<理由・形式・武将・年>−【今川館】・平城・今川泰範(駿河守護)・応永6年(1399年)【駿府城】・徳川家康・天正13年(1585年) ■増改築− ■城の名の由来−♦別名「府中城」「静岡城」 ♦駿府城は、3回築かれている。 (1) 今川氏の居城(館)の駿府城は、永禄11年に武田信玄の駿河侵攻と、天正10年の徳川家康の侵攻により灰燼と帰す。 (2) 駿河国を手に入れた家康は、今川館の地に築城(現駿府城の本の丸・二の丸)し、天正17年に浜松城から居城を移した。 (3) 大御所となった家康は、隠居城として城の大修築を行い、慶長13年に完成した。 ■城の歴史<城主の経緯>−徳川氏、中村氏、内藤氏 ■城の顛末−明治22年(1889年):静岡市に公園として払い下げられ、城の任務を終える。 ■遺構−石垣、堀、復元櫓・門 ■お祭りなど−♥駿府公園 ♥静岡まつり・四月の第一金・土・日 ■所在地−静岡県静岡市葵区駿府公園 ■宿泊− ■交通−●JR静岡駅から徒歩10分 ●静鉄新静岡駅から徒歩5分 ●東名高速静岡I.Cより車で約15分 ■休館日−月曜日(祝日、休日にあたる場合はその翌日)年末年始(12月29日〜1月3日) 開園時間:午前9時〜午後4時30分 ■料金−大人¥300 小人¥80 ■連絡先−駿府公園・紅葉山庭園管理事務所 TEL 054-251-0016 ■秘話
伊豆  遺構なし
甲斐 躑躅ケ崎館 ■創建<理由・形式・武将・年>−館・武田信虎・永正16年(1519年) ♦信虎は、石和館から移り住み、城下町を整備し、名を「甲府」と改めた。 ♦信虎は、石和館から移り住み、城下町を整備し、名を「甲府」と改めた。 ♦信玄は、館の主になってから天正元年(1573年)4月に死ぬまでの32年間、甲斐国へ一度も他国勢に踏ませることはなかった。 ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−武田信虎 武田信玄 武田勝頼 ■城の顛末− ♦天正9年勝頼が韮崎の新府城を築いて移るに際して、多くの材料を持ち運ばれ、躅ケ崎館は事実上の廃城となり、3代62年間で躑躅ケ崎館はその役目を終えた。♦大正8年(1919年)信玄を祭神として、信玄の執務所のあった中曲輪跡に『武田神社』が造営された。 ♦ご利益:勝負事に勝つ。人生そのものに勝つ。自分自身に勝つ。産業・経済の神。民政の神。 境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。 ■遺構− ■お祭りなど−♥武田神社 ♦信玄公まつり(4月12日・命日)  ■所在地−山梨県甲府市古府中町 ■宿泊− ■交通−●JR中央本線・JR身延線甲府駅から、バス武田神社下車 ●中央自動車道 甲府昭和IC・一宮御坂IC・ 韮崎ICの各インターチェンジより30分程 ●無料駐車場 大型バス10台 乗用車70台 ■休館日−宝物殿 9時30分〜16時30分迄 ■料金−宝物殿 大人300円:子供150円 ■連絡先−武田神社 055-252-2609 ■秘話
相模 小田原城 ■創建<理由・形式・武将・年>−治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救う・土肥遠平・戦後、小早川村(小田原市)に築城。毛利隆景(安芸)が婿に入った小早川家の先祖。小早川隆景にも子がなく、豊臣秀吉の養子である秀秋を養子に迎えている。秀秋は、石田三成らの仕打ちに、1600年の関ヶ原の戦いで躊躇した末、陣中に家康に砲弾を撃ち込まれて、東軍に寝返った。その後、東軍への寝返りが続出し、東軍の勝利が確実になった。 ■増改築−♦室町時代応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚し、大森氏が奪った。大森氏・1417年(応永24) ♦大森藤頼より奪う。北条早雲・1495年(明応4年) ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−土肥氏・大森氏・後北条氏・阿部氏・稲葉氏・大久保氏 ■城の顛末− ■遺構−石垣、土塁、堀、復元天守・門 ■お祭りなど−♥小田原城址公園 ♦梅まつり:2月上旬〜下旬 ♦小田原北条五代祭り:5月3日 ♦小田原ちょうちん夏まつり:7月下旬 ■所在地−神奈川県小田原市城内 ■宿泊− ■交通−♦小田原駅から徒歩10分 ♦場内臨時駐車場・めがね橋臨時駐車場・本町臨時駐車場・藤棚臨時駐車場など計530台収容 ■休館日−12月29日から12月31日まで 開館時間午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) ■料金− 一般400円 小中学生150円(団体割引あり)(小田原城歴史見聞館とのセット券あり)(小田原城ミューゼとのセット券あり)(障害者手帳持参で無料になります) ■連絡先−市経済部観光課 0465-33-1521 ■秘話 ♦小田原城主の大森氏頼が病没した翌年、明応4年、早雲は伊豆の鹿が大森氏の領地である箱根山中に逃れたので、勢子(狩りの時に獣を追う人足)を箱根に入れたいと、父氏頼とは比べものにならない凡将の大森藤頼に平身低頭して頼み込んだ。藤頼が気やすく許したところ、勢子に扮した早雲の軍勢が、小田原城を奇襲。難攻不落の名城を乗っ取ることに成功した。 ♦後北条というが、代々鎌倉幕府の執権をつとめ、蒙古を撃退した北条時宗の一族とは何の関係もない。伊勢新九郎長氏(早雲)が、関東では北条の方が通りが良いので、「本家」が滅んでしまったのを幸い、ちゃっかりと北条を名乗ったのである。名門なら先祖の姓はみだりに変えることはない。
武蔵(多摩) 江戸城 ■創建<理由・形式・武将・年>−前進拠点・平城・太田道灌・康正3年(1457年) … 当時の江戸城ははなはだ貧弱で、石垣は用いられず、ほとんどの屋根は板葺き屋根であったという。江戸城に入った道灌は、主家扇谷上杉家の為に尽くすが、文明18年(1486年)、主君定正に謀殺された。大永4年(1524年)道灌の孫大田資高の内応により、江戸城は後北条氏の手に落ちた。 ■増改築− ■城の名の由来−千代田城とも云う ■城の歴史<城主の経緯>− ■城の顛末−1868年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月に東京城(とうけいじょう)に改名された。翌1869年、江戸は東京と改名され、遷都により皇城となる。1888年には明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称された後、1948年に皇居と改称された。 ■遺構−面積は世界最大を誇る城郭 ■お祭りなど−★皇居東御苑(旧本丸・二の丸) ◇交通 ・JR東京駅から徒歩10分、・営団地下鉄千代田線二重橋前駅(二重橋方面)から徒歩5分、・営団地下鉄有楽町線桜田門駅(桜田門方面)から徒歩5分 ◇入園時間 3月から10月:9時から16時(16時30分閉園)11月から2月:9時から15時30分(16時閉園)◇休園日 ・月曜日及び金曜日(ただし、天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開します。なお、月曜日が休日で公開する場合は、火曜日を休園します。・12月28日から翌年1月3日・行事の実施等で支障のある日 ◇出入門 大手門・平川門・北桔橋門(きたはねはしもん) ◇料金 無料 ◇問合せ ・千代田区商工振興課TEL:03-3264-0151 ・宮内庁TEL:03-3213-1111  ★皇居(旧西の丸の一部)◇入場可能日・時間 (手続き不要)・1月2日(新年参賀)、12月23日(天皇誕生日)午前10時前後から ◇一般参観(要手続き)月曜日から金曜日の毎日(ただし、休日・年末年始・行事など支障のある日は除く)(手続き)電話で参観日時を予約(希望日の1ヶ月前の一日から10日前迄に手続き可)し、直接窓口か郵送で手続きのこと。詳細は予約の際に参観係まで。(申込先)〒100-8111(住所不要)宮内庁管理課参観係 TEL:03-3213-1111◇料金 無料 ■所在地−武蔵国豊嶋郡江戸(東京都千代田区千代田) ■宿泊− ■交通− ■休館日− ■料金− ■連絡先− ■秘話−♦山吹伝説=道灌が、父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道潅は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を他人にしたこところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」の歌に掛けていると教わった。古歌を知らなかった事を恥じて道灌は歌道に励んだという。 ♦道灌は古河公方や山内上杉氏に対する前進拠点を探して、ある日品川沖を船で進んでいたところ、一匹の魚が飛び込んできた。彼はこれは瑞祥と感じ、地元の民に土地の名を尋ねたところ、「千代田・宝田・祝田という村でございます。」という返事を得た。村の名も縁起が良かったので、道灌はこの地に城を築くことに決めたという。時に康正2年のこと。 ♦関東の連れ小便=天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で、豊臣秀吉は徳川家康と共に小便をしながら、北条氏を滅ぼした後、家康に関八州を与える約束をしたと伝えられている。これを指して云う。
武蔵(秩父)
安房 館山城 ■創建<理由・形式・武将・年>−平山城(丘城)・里見義康・ 天正18年(1590年) ■増改築− ■城の名の由来−別名:里見城 ■城の歴史<城主の経緯>−里見氏の居城 ♦義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原の役における遅参・惣無事令の違反により秀吉の怒りを買い、上総・下総を没収された。このとき徳川家康がとりなした事により、以降里見氏は徳川氏と誼を通じるようになる。その後関が原の役で功を挙げ常陸国鹿島にて3万石が加増された。また、義康の弟の里見義高も上野国板鼻藩主に任じられた。だが、慶長18年(1613年)に里見義高が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉3万石に転封となった(だが、実態は配流と同じ扱いである)。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。 ■城の顛末−十代忠義の代に慶長九年(1614年)、改易移封され、館山城は破却された。 昭和57年:鉄筋コンクリート造り 三層四階建て 天正年間の天守の姿で建設。 ■遺構−曲輪、堀切、空堀・水堀の一部、模擬天守 ■お祭りなど−♥博物館「館山城」 ♦城山公園(通年) ♦南総里見まつり(10月15日) ■所在地−千葉県館山市館山351-2 ■宿泊− ■交通−♦JR内房線館山駅からJRバス洲の崎経由安房白浜方面行きで10分、城山公園前下車、徒歩5分 ♦駐車場:無料70台 ■休館日−館山市立博物館:営業時間9:00〜16:30:休業日 月曜 祝日の場合は翌日休 ■料金−入園料=無料/博物館入館料=大人150円、小・中学生80円 ■連絡先−0470-22-3610(館山市都市計画課公園係) ■秘話−里見八犬伝の舞台となる。
上総 大多喜城 ■創建<理由・形式・武将・年>−里見氏への抑え・平城・本田忠勝・天正18年(1590年) ■増改築− ■城の名の由来−別名:大滝城、小多喜城 ■城の歴史<城主の経緯>−天正18年(1590年)小田原攻めで後北条氏を下した秀吉より、徳川家康は三河などの領地を取り上げられた上で、関東の地を与えられた。しかし関東には常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏、安房の里見氏など、徳川と関係ない大名がいた。家康は数々の功績を残した徳川四天王の一人本田忠勝を、10万石で上総大多喜の地に、上総を募集された里見氏への押さえとして移封した。忠勝は、この旧大多喜城(大多喜根古屋城)を放棄して、新大多喜城を築いた。慶長十四(1609)年、メキシコ商船サン・フランシスコ号が暴風で御宿町に漂着、本多忠勝はドン・ロドリゴら一行約300人を大多喜城に招いて世話をした。 この後、城主は阿部、青山、久世、稲垣、植村と交代、元禄十六(1703)年に松平正久が引継ぎ以後九代続いて明治維新となる。しかし、慶長19年(1614年)里見氏が改易処分となり、大多喜城の軍事的重要性は薄れた。城主が変わるたびに禄高が減少、わずか2万石の小藩として明治維新を迎えた。 ■城の顛末− ■遺構−曲輪、土塁、井戸、移築現存門、模擬御三階櫓 ■お祭りなど−♥常設館  ♦大多喜お城まつり(昭和50年9月第一回) ■所在地−千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 ■宿泊− ■交通−いすみ鉄道大多喜駅から西に約500m(大多喜城址・総南博物館) ■休館日−毎週月曜日・12月26日〜1月4日(開館時間 9:00-16:30) ■料金−一般200円 高・大学生100円 小・中学生、65歳以上、障害者手帳保持者は無料です。(但し、企画展は別途料金) ■連絡先−千葉県立中央博物館大多喜城分館:0470-82-3007 ■秘話−
下総 関宿城 ■創建<理由・形式・武将・年>− ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>− ■城の顛末−♦1457年 - 古河公方家臣・簗田成助が築城? ♦1565年 - 1574年 - 3度の関宿合戦(北条氏vs城主簗田晴助(上杉方)) ♦1590年 - 小田原の役後、松平康元が入城、関宿藩興す ♦1671年 - 天守破損、御三階櫓を江戸城富士見櫓を模して建築 ♦1870年 - 外曲輪焼失 ♦1872年 - 廃城決定 ♦1875年 - 民間払い下げ、破却 ♦1995年 - 千葉県立関宿城博物館として再建 ■遺構−模擬天守(御三階櫓)、城門(移築)、土塁、堀 ■お祭りなど−♥   ■所在地−千葉県野田市関宿三軒家 ■宿泊− ■交通−♦自動車 国道16号中里陸橋から25分,東北道加須I.Cから40分 駐車台数100台無料 ♦東武鉄道 野田線:川間駅から朝日バス(境町行き)32分 関宿城博物館下車 ♦伊勢崎線:東武動物公園駅から朝日バス(境車庫行き)27分、新町バス停下車徒歩15分 ■休館日−♦開館時間 9:00〜16:30(入館は16:00まで) ♦休館日 月曜日(その日が祝祭日の場合は翌日)および年末 ■料金−♦一般200円 高大生100円 中学生以下・65歳以上無料 ■連絡先−千葉県立関宿城博物館 04-7196-1400 ■秘話−簗田 満助(やなだ みつすけ)(応永2年(1395年)−永享10年11月1日(1438年11月18日))は、室町時代の武将。鎌倉公方(足利持氏)に仕えて、河内守を名乗って鎌倉公方奉公衆筆頭となる。永享10年、6代将軍足利義教の命を受けた関東管領上杉憲実によって持氏が攻められる(永享の乱)と、満助は一族郎党とともに抵抗するが、やがて息子・持助に永寿王丸を託して落ち延びさせた後に、幕府側の攻撃を受けて自害したと言う。
常陸 土浦城 ■創建<理由・形式・武将・年>−平城(水城)・今泉氏・永享年間(1429〜41) ■増改築− ■城の名の由来−通称亀城 ■城の歴史<城主の経緯>−♦主要城主:菅谷氏、松平氏、朽木氏、土屋氏 ♦1601(慶長6)松平信一が藩主となり城郭整備 ♦1884(明治16)本丸館(当時新治県役場)が焼失 ♦1950(昭和25)台風で損壊した西櫓を解体 ♦1992(平成3)西櫓再建 ♦1999(平成10)東櫓再建 ■城の顛末− ■遺構−曲輪、櫓、城門、土塁、濠 ■お祭りなど−♥亀城公園 ♦土浦藩「関流古式砲術(火縄銃)公開演武」亀城公園本丸跡 第11代宗家 関正信氏 他一門衆 (空砲射撃)11月頃に毎年1回開催。 ■所在地−茨城県土浦市中央1丁目 ■宿泊− ■交通−♦JR土浦駅西口 徒歩15分 またはバス「亀城公園前」下車すぐ ♦常磐自動車道 「桜土浦IC」 より約20分 ♦歴史民族博物館の駐車場利用(無料) ■休館日− ■料金−亀城公園・入園自由 ■連絡先−土浦市立博物館:029-824-2928 ■秘話−土浦城は、霞ヶ浦の畔に築かれ、縦横に濠を廻らし有事の際には、湖水を引き入れて、さながら浮城となる縄張りであったとか。現在は、その濠も埋められ、市街地と化して、本の丸と二の丸の一部が亀城公園となっている。


近江 長浜城 ■創建<理由・形式・武将・年>−今浜城、京極道誉(佐々木道誉:婆娑羅大名/1296-1373年)… 浅井氏の旧領湖北12万石を信長から拝領したが、交通の不便な小谷城を廃して、今浜城跡に長浜城として:平城(水城)・羽柴秀吉・天正元年(1573年) ■増改築− ■城の名の由来−通称 今浜城 ■城の歴史<城主の経緯>−羽柴氏、柴田氏、山内氏、内藤氏 ■城の顛末−廃城年 1615年/元和の一国一城令で廃城となり、内藤氏は摂津高槻に移った。 ■遺構−石垣、堀、模擬天守(1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元) ■お祭りなど−♥   ■所在地−滋賀県長浜市公園町10-10(豊公園) ■宿泊− ■交通−♦JR北陸本線長浜駅〜徒歩 ♦北陸自動車道IC〜国道8号線 ♦駐車場: 豊公園の無料駐車場を利用 ■休館日−♦毎週月曜日と毎月最終火曜日 ♦開館時間 AM9:00 〜 PM5:00(入館はPM4:30まで) ■料金−一般400円 ■連絡先−長浜城歴史博物館: ■秘話− 1573年(天正元年)に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。天正3・4年頃完成し入城。城下町は小谷城下(滋賀県東浅井郡湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、今現在でも城下町には当時の面影や名残がある。本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するが、直後に秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。
美濃
飛騨
信濃 上田城   ■創建<理由・形式・武将・年>−梯郭式平城。1582年の武田氏滅亡後、天正11年(1583年)、真田昌幸が築城を開始。 ■城の名の由来−別名:尼ヶ淵城、真田城 ■城の歴史−徳川、北条と対立した天正13年(2000vs7000)と、慶長5年(1600年)の関ヶ原前哨戦ともいう対徳川秀忠(2000vs3万8000)の合戦の2回、大軍を相手に渡り合い、撃退した堅城。知勇の名将・昌幸の采配抜きには語れない。 <城主の経緯>−真田氏、仙石氏、松平氏 ■増改築−関ヶ原合戦後に破壊。領土は東軍方だった嫡男信之に引き継がれたが、上田城は存在しなかった。寛永3年(1626)から仙石忠政が再建を開始したが半ばで倒れ、以降、本格的な再建はない。 ■城の顛末−明治に土地や建物は民間へ売却されたが、内2棟の櫓は昭和期に市民運動によって買い戻され、北櫓と南櫓として設置。現在は上田城跡公園となり、市営球場、市民会館、市立博物館が併設されている。日本100名城 ■遺構−曲輪、土塁、石垣、櫓三基、復興大手門他 ■お祭りなど−上田城千本桜まつり、信州上田夏まつり♥常設館 ■所在地−長野県上田市二の丸6263番地イ ■交通−JR「上田駅」から徒歩10分。上信越道「上田菅平IC」から15分。国道144号→国道18号 ■休館日−上田市立博物館:♦毎週水曜日・祝日の翌日・年末年始(8月〜10月は無休) ♦開館時間 AM8:30 〜 PM5:00(入館はPM4:30まで) ■料金−大人250円、学生(高校生以上)180円、小中学生60円 ■連絡先−上田市観光課 0268-22-4500 ■秘話
上野 前橋城 ■創建<理由・形式・武将・年>− 1490年(延徳年間)頃、箕輪城の支城として、長野方業が築城したとされる石倉城が前身。 1534年(天文3年)石倉城が洪水により崩壊し、残った三の丸に当時の城主長尾賢忠が再び築城した。 ■増改築− ■城の名の由来−別称 厩橋城 ■城の歴史<城主の経緯>−長野氏、長尾賢忠、北条氏、滝川一益、再び北条氏‥‥松平直克 ■城の顛末−利根川の洪水などにより、度々崩壊。最後の再築後、半年で江戸幕府が終焉し、のち廃藩置県により僅か6年で廃城となった。 ■遺構−土塁 ■お祭りなど− ■所在地−群馬県前橋市大手町1-1-1(県庁周辺) ■宿泊− ■交通−JR「前橋駅」からバスで「県庁前」へ。徒歩2分 ■秘話−
下野
陸奥
  磐城
  岩代 鶴ヶ城   ■創建<理由・形式・武将・年>−梯郭式平山城。至徳元年(1384年)、7代蘆名直盛が東黒川館を築城。 ■増改築− 1589年、伊達政宗が蘆名氏を攻め滅ぼしたが、翌年秀吉に臣従し召し上げられた。 1592年、代わって入城した蒲生氏郷が城下町を整備し、七層の天守閣を完成させて「鶴ヶ城」に改められた。 1611年の会津地震で天守閣が倒壊するも、後に加藤明成が五層で再建し、西出丸、北出丸などの増築を行った。 ■城の名の由来−別名:若松城、会津若松城、黒川城 ■城の歴史<城主の経緯>−蘆名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科→松平氏 ■城の顛末−会津戦争で1ヶ月の籠城に耐えたが損傷も激しく、最後は開城し新政府軍の管理となる。1965年に現在の天守閣が再建され、櫓や長屋も復元された。現在では桜の名所となっている。日本100名城 ■遺構−石垣、土塁、堀 ■お祭りなど−♥常設館 ■所在地−福島県会津若松市追手町 ■交通−JR「会津若松駅」から徒歩50分。またはバスで「鶴ケ城北口」へ10分、徒歩5分 ■休館日−鶴ヶ城博物館 無休 ♦開館時間 AM8:30 〜 PM5:00(入館はPM4:30まで) ■料金−大人 400円、小中学生 150円 ■連絡先−会津若松市観光公社 0242-27-4005 ■秘話−保科正之は3代徳川家光の弟。保科氏は後に将軍家より松平姓と葵の紋を許された。京都守護職・松平容保の居城であり、天皇からも信頼を得る働きをしながら、維新側より朝敵として攻め落とされた、伏見・鳥羽を緒戦とする戊辰戦争は余りに有名。白虎二番隊の誤認自刃も鶴ケ城である。 霞ヶ城 ■創建<理由・形式・武将・年>−初代二本松藩主、丹羽光重公が10年の歳月をかけて築いた城「二本松城」。 ■増改築−戊辰戦争により落城、昭和57年に箕輪門が復元。 ■城の名の由来−別名:二本松城。 ■城の歴史<城主の経緯>−。 ■城の顛末−。 ■遺構−  ■お祭りなど−  ■所在地−福島県二本松市郭内4地内  ■交通−JR東北本線「二本松駅」から徒歩20分、または東北自動車道「二本松IC」から車約5分  ■休館日−福島県立霞ケ城公園   ■料金−開園時間 : 入園自由  ■連絡先−二本松観光協会 0243-55-5122  ■秘話−慶応4年(1868)7月29日、日本松城は、新政府軍の攻撃を受けて陥落する。13, 4歳そこそこの少年達が鉄砲を手にして、城をめぐる攻防戦の最大の激戦地であった大壇口で勇戦、新政府軍を一時は釘付けにしたものの、約20名が名誉の戦死を遂げてしまう。後世、彼らを二本松少年隊と呼んでいる。新政府軍の隊長の中には、まだ子供だからといって見逃した者もいた一方、おもしろ半分に年端もいかぬ少年をなぶり殺しにした者もいたとも伝えられている。少年達の遺骸は、二本松城下の大隣寺に葬られ、大壇口には供養碑が建てられている。 
  陸前 多賀城   ■創建<理由・形式・武将・年>− 創建は724年、陸奥鎮守将軍・大野東人が築城したとされる。 奈良の大和政権が、蝦夷を制圧するための軍事的拠点として設置した。 ちなみに「夷」は、外来者・辺境部の異人という意味があるそうで、政府から見た一方的な呼び名。 ■増改築−奈良時代の反乱や、前九年の役や後三年の役など、軍事拠点として機能したため、再三消失、再建している。 ■城の名の由来−続日本紀には「多賀城柵」として登場する。 ■城の歴史<城主の経緯>−南北朝時代、北畠顕家が陸奥守に任じられた。 ■城の顛末− ■遺構−曲水宴、政庁跡、城碑、復元された塀など ■お祭りなど−多賀城跡あやめまつり ■所在地−宮城県多賀城市 ■交通−JR「国府多賀城駅」から徒歩10分 ■休館日−♦毎週月曜日(祝日等を除く) 年末年始 ♦開館時間 AM9:30 〜 PM5:00(入館はPM4:30まで) ■料金−一般400円(高校生まで無料) ■連絡先−東北歴史博物館 ■秘話
  陸中
  陸奥
出羽
  羽前
  羽後
蝦夷



若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡




丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲 松江城   ■創建<理由・形式・武将・年>−♦慶長16年(1611年) ♦堀尾吉晴 ♦月山富田城が近世城下町形成には不利であったため、末次城のあった亀田山に築城。高さ30m、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されています。 ■増改築−♦三の丸の修築(1634年) ‥松江城の全容が完成 ■城の名の由来−千鳥が羽根を広げたように見える千鳥破風の屋根が見事なことから、別名「千鳥城」とも呼ばれます。 ■城の歴史<城主の経緯>−堀尾氏(3代)、京極忠高、松平直政(以降、松平氏が明治維新まで続いた) ■城の顛末−現在に至る ■お祭りなど−♥常設館 ■遺構−現存天守、石垣、堀、復元櫓・門 ■所在地−松江市殿町1-5 ■宿泊− ■交通−JR「松江駅」からバスで「松江城(大手前)」まで ■休城日−年中無休 ■料金−有料、HP参照 ■連絡先−松江城山公園管理事務所 (TEL:0852-21-4030) ■秘話?−堀尾氏も京極氏も嗣子がなく、改易となった。なお、松平直政は徳川家康の孫であり、松平氏は明治維新まで10代続いた。
石見
隠岐





播磨
美作 津山城 ■創建<理由・形式・武将・年>−平山城・山名忠政・ 嘉吉年間(1441年〜1444年)♥応仁の乱(1467〜1477年)で山名氏衰退ののち廃城 ■増改築−慶長8年(1603年)森忠政(森蘭丸の弟)が18万6千石で入封し津山藩が立藩。同年、現在見られる津山城の建設に着手。 ■城の名の由来−城地の名を「鶴山(つるやま)」から、「津山」に改めた。 ■城の歴史<城主の経緯>−山名氏、森氏、松平氏 ■城の顛末−1871年に廃城となってから、天守・櫓などの建物がことごとく破却。 明治23年、腰巻櫓跡石垣の崩落を契機に城の保存運動が起こり、城跡は町有化され鶴山公園となる。 ■遺構−石垣、堀 (再建造物)備中櫓、塀 ■お祭りなど−♦さくらまつり ■所在地−岡山県津山市 ■宿泊− ■交通−♦JR津山駅 ■連絡先−0868-22-4572(鶴山公園案内所) ■見所−♥日本桜の名所100選。5000本の見事な桜が咲き乱れる西日本有数の桜の名所。
備前
備中
備後 三原城 ■創建<理由・形式・武将・年>−平城・小早川隆景・ 天正8年(1580年)♥濠には海水が入り、干満により水位が変化した海の要塞で、城内には32基の櫓と14ヶ所の城門が配置された、水軍仕様の城郭兼軍港であった。 ■増改築− ■城の名の由来−別名:♥浮城−沼田川河口に築かれ、海に浮いているように見えたため、「浮城」と呼ばれ、豊臣秀吉、徳川家康もここに泊まったと言われています。 ■城の歴史<城主の経緯>−小早川氏、福島氏、浅野氏 ■城の顛末−1871年に廃城となってからも政府が管理していたが、明治27年(1894年) 三原駅建設地に転用され、建築物は材木や市内の糸崎神社や順勝寺の門に移築されたり、石垣も糸崎港建設の用材として大部分が破壊された。2004年から天主台跡付近を保存、公園化する工事が進められている。 ■遺構−石垣、堀、船入跡、船入櫓跡、本丸中門跡 ■お祭りなど−♦やっさ祭り(8月) ■所在地−広島県三原市 JR三原駅周辺 ■宿泊− ■交通−♦JR山陽本線三原駅 ■連絡先−0848-63-1481(三原観光協会) ■秘話−♥小早川隆景−毛利元就の三男で知勇の将で、関ヶ原の勝敗を決した小早川秀秋は隆景の養子。秀秋後、小早川家は断絶したが、明治になって毛利本家から分家され、再興した。♥秀秋は豊臣秀吉の甥で後継として養子にも入ったが、秀頼誕生で後継の必要がなくなり、毛利家へ出される動きがあった。一方、無縁の者が本家の主になることを避けたい隆景が、本家へは血族を養子とし、小早川家へ秀秋を迎えることで毛利本家を守った。♥結果的には評価の低い秀秋だが、武功でも統治でも成果を出しており、他の兄弟でなく彼が秀吉の養子に入ったことをみても、決して暗愚な将ではなかったようである。
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阿波 上桜城 ■創建<理由・形式・武将・年>−山城・篠原長房・天文年間(1532〜54年) ♦三好氏の家老・篠原長房は三好長慶の実弟・三好義賢とウマが合わず、川島の地に追いやられた際、天然の要害の地に上桜城を築いて居城とした。 ■増改築− ■城の名の由来− ■城の歴史<城主の経緯>−篠原長房 ■城の顛末− ♦三好義賢が阿波守・細川持隆を討ち滅ぼしたことが、三好と篠原の溝を深めた。元亀3年(1572年)三好義賢の嫡男・三好長治の猛攻を受け、4ヶ月の籠城の末、7月16日に城を討って出て全員討死。一代限りで崩壊した。阿波史上最大の戦い「川島合戦」と言われる。 ■遺構−本丸、二の丸、三の丸が設けられていたが、現在は、土塁、曲輪跡を残すのみ。 ■お祭りなど−  ■所在地−徳島県吉野川市川島町川島 ■宿泊− ■交通−●川島城の東側を南北に走る県道43号を南下、道路脇に案内表示があります。中央美化センターから南へ約500m。 ■料金−なし
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