貞観政要を学ぶ

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'15.6.22 更新'18.2.23
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《貞観政要・その四》太宗 季世民

さあ、大いなる男の自信をつけよう

太宗 季世民

隋を討ち、唐王朝を建国した高祖 李淵の次子。中国史上最高の名君と称えられる。

廟号

 「太宗」は、廟号といって、皇帝が死去してから後に贈られた称号で、二代目に贈られることが多 かった。
初代には高祖とか太祖といった廟号が贈られた。

年表

581 楊堅(文帝)、隋をおこす
589 隋、陳を滅ぼし天下統一す
598 季世民生まれる(〜649)日本では聖徳太子が活躍していた頃
604 煬帝(ようだい)、即位す(〜618)
612 煬帝の第二次高句麗遠征
613 楊玄感らの反乱おこる
614 煬帝の第三次高句麗遠征
616 諸方に反乱おこる。以降群雄各地におこる
617 唐公季淵、隋を離れ挙兵、長安を陥れる。
李淵は長安に入城するや、煬帝の嫡孫、代王侑(ゆう)を皇帝の位につけ(恭帝という)、みずから はその下で実権を握って、やがて行なわれる禅譲への布石を打った。

618 煬帝、江都昨夜から3月10日朝、佞臣らに殿中で追いつめられ、「陛下は宗廟を遺棄して、 巡遊を続け、外征に熱中し、奢淫をきわめた結果、壮年の男子は刃の露と消え、婦女子は餓死して溝 に捨てられ、四民は生業を失い、盗賊が蜂起した。それなのに専ら佞臣を任命し、非を飾り、諫めを 拒んでいながら、どうして罪がないといえるのか」と、佞臣達に絞殺さる。 ── 煬帝の元から逃亡 すると捕まって殺される。いっそのことと開き直った者たちに殺されるのである。

618 季淵(高祖)が禅譲により、唐(618〜907)をたてる(〜626)
626 玄武門の変(季世民、太子建成(兄)を殺す)最後の最後まで兄弟達を討つ事をためらって、諫められて実行した。
626 季世民(太宗)が即位する(〜649)(貞観の治
628 唐の中国統一成る
629 玄奘のインド旅行(〜645)(「大唐西域記」)
643 魏徴死(580〜)

対して 煬帝

中国史を代表する暴君とされる。彼も次子だが、本性を隠して控えめに振る舞い、派手好き色好みで両親に疎まれていた長子 楊勇に代わって、太子となる。
「煬」は、礼を無視した者、人民から嫌われた者というような、悪い意味を持つ。 ただし、廟号は世宗。煬帝は唐王朝による追謚である事は考慮すべき。

隋の煬帝は決して無能な統治者ではなかった

 首都は、シルクロードの終着点で西方への要として、長安、落陽と外れた位置にあった。その物資 を南方へ運ぶ必要があった。
 かん溝(長江─淮河)約300km、江南運河(江蘇の鎮江─杭州の浙江)約400km、通済渠(洛陽─江蘇の 清江)約1,000km、合計1,700kmの大運河。
 現在の中国も浚渫して使かっているいう価値のある大土木事業だった。しかもこれは、煬帝がいき なり造ったものではなく、ぶつぶつにあったものをつないだり、拡大したりして、その価値を何倍に も拡大したものである。

時期が悪かった

 隋は煬帝の父文帝が創立したが、それまで中国は約400年間、日本で言う戦国時代であった。 民は疲弊していた。大事業を成すのには時期尚早であった。

追い打ちを掛けた

 高麗の遠征、長城の再構築、娯楽用の巨大な池、大宮殿の造築となれば、民衆から怨嗟の声が上が って不思議ではない。
派手で浪費家であり、享楽的性癖が強かったので、晩年、政治的労苦に耐えられなくなってきた。

隋から唐へ

季世民の父季淵は、煬帝の一武将であった

 隋の将軍李淵は、当時、反乱軍に足もとを脅かされていた。このままでは野垂れ死にする恐れがあ る。生き残るためには、煬帝配下の一武将としての立場から脱皮して、群雄割拠の渦中に身を投じ、 独自の政治的立場を築く必要があった。
 世民はすでにこの時の来ることを予期し、ひそかに私財を投じて賓客を養い、群盗侠客を手なずけ ながら兵を養っていたといわれる。十代の若者のすることか? そして、父の尻を叩いて挙兵に踏み きらせたのが、世民であった。

唐王朝による全国統一

(太宗は、創業と守成を兼ねた名君だった)
 禅譲で帝位についたが、諸侯が認めた訳ではないので、群雄を征服し、干渉されない実力をつけな ければならない。そこで全国統一戦争となる。弱冠19歳の季世民が、大きな働きをし、実質的に唐王 朝による全国統一を成し遂げ、その実力を世に示した。彼の働きがなかったら、唐王朝の創業もなか ったと言ってよい。
 世民には、兄・建成(けんせい)、弟・元吉(げんきつ)がいた。 この二人がおもしろくない。日に日に険悪となり、玄武門の変となり、季世民が後継者となった。

玄武門の変

 危機感をつのらせた太子建成は、やがて末弟の斉王元吉と手を組んで、世民を亡き者にしようと考 えるようになった。
 626年7月2目、世民に仕えていた秦王府の腹心たちが、先手をとって決起し、玄武門に待ち受けて 建成と元吉の2人を血祭にあげたのである。これを「玄武門の変」という。

温故知新

( ── 「98%は凡人である」)
 「98%は凡人である」と言われますが、季世民はあきらかに2%の内の、更に2%の人です。

 私が会社を作った時、「あんただから出来たんだよ」とか「その人の環境だと思う」と言われたことがあります。会社を作りたければ「おれ社長!」と勝手に手を挙げるだけの事です。会社を作る事ぐらい誰でも出来るし、それほどの事か? 「問題にすべきはその先ではないか!」と不思議に思ったものです。
 何でそんな言葉を用意するのか、そんな愚にもつかない事を考えている間に、いま以降をより良く するには何をしたら良いかを一生懸命に考えるべきであろうに。

 最近つくづく思いますことは、「その人にあった成功の手本などと言うモノはどこにもない」とい う事です。「手本なるもの」が出来た時点で、それは既に人真似で、独創性の失われたものです。 官報に載った特許です。もうその発想は古いのです。
季世民は十代にして、常に先を思い、独創性を磨いていたのです。

 我々は、今の中国には「顰蹙以上の感情」を強く抱きますが、役に立つものは感情を捨てて利用す べきで、日本の手本となった頃の中国に学んでいます。
学べ。真似をしろ。そして、それを土台に創造しろ。 ─ その創造した物で勝負しなければ、人真似 は単に値段の競争になるだけで、勝つことは叶いません。負けた量販店の社長がその後することは、 首をくくることです。
── 網倉

次回は、《貞観政要・その五》 です。